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虚像を追いかけながら

その先に何もないことだけは分かっている

岩本照とニューヨーク

 
木管楽器で悲しげな音楽が流れている。
舞台には船のミニチュアのようなものが流れてきた。
 
幕には何か巨大な船の映像も流れている。
 
タイタニック号の設計者らしい人が出てきて話しているのでこの船は誰もが知っているあの悲劇のタイタニック号なのであろう。
 
場面は切り替わる。
うっすらと幕の向こう側でパーティーが開かれている。誰の為でもなく舞うダンサー。
 
左の方から小さい男の子と少し大きい男の子が出てくる。彼らは一番低い3等船室の客らしい。身なりもそのようだ。
 
大きな音がした。ああ、これはタイタニック号の中なのだ。あの事故が起きたのだ。
 
彼が出てきた。
 
左端のパーティー客に紛れて出番を待ち、後ろ向きにしゃがみこんでいる。
青いジャケットに刈り上げられた金髪。まさしく彼だ。
 
おもむろに彼は立ち上がり、なお後ろ向きである。
大きく逞しい背中だ。
 
 
「おい!一体どうなってるんだ!この船は絶対に沈まない不沈船だって言われてたじゃないか!」
 
彼は舞台上の階段を駆け下りてこう叫んだ。セーラー服を着た誰かに向かって。
彼は相当怒っているみたいだ。
自分の乗っている船で何か起きているのだから当たり前か。
金髪も彼の動きに合わせてなびいていく。
 
セーラー服は答える、「氷山に衝突してそこから浸水したようです」
 
ああもうこの船は浸水しているのだ。
彼の命もここで絶えてしまうのだろうか。
 
「この船乗るのに俺がいくら払ったと思ってるんだ。ニューヨークではまだ幼い子供が俺の帰りを待っている。こんなところで死んでたまるか。」
 
彼は子持ちだった。岩本照(22)(既婚)だった。
自分の命よりも残してきた子供を想うなんていい父親なのだ。
 
セーラー服は答える、「氷山を発見した時にはどれだけ減速しても回避することはできませんでした。航海士である私の責任です。」
 
セーラー服は航海士だった。
 
「貴様ー!」
彼が航海士の襟をその長い指でつかみながら顔をしわくちゃにしている。
子供にはもう会えないと悟ったのであろう。
人の必死な表情はこの世で一番美しいものだ。
 
彼は航海士につかみかかった後、舞台の上でなにやら他の客の救助をしている。
子供に会いたいのならさっさと避難しボートに乗るべきではなかろうか。
 
思い出した。昔、英語の教科書で読んだことがある。タイタニック号に乗っていたお金持ちは自らの尊厳故に幼い子供や女、貧しい人を優先して助けたのだと。
 
ジャニー氏はこのことを彼に再現させようとしたのか。
 
他の客への誘導が終わった後、彼は制服を着た船長らしい誰かと右端で何やら話している。
彼はとても偉い身分なのだろう。
 
話し込んでいた彼が急に舞台の真ん中に移動し、ひざまずいて冒頭の三等船室の客の肩を掴む。
 
「おい、弟はどこにいるんだ。いいか、俺がなんとかしてやる。泣いてる場合か!」
 
彼はここまで来てとうとう格下を助けようとしている。
必死に誰かを救おうとする彼。
彼は優しくていい人なのだ。
航海士のことは半殺ししそうな眼で見ていたが。
 
大きな音が響いた。この船はもうそろそろ限界みたいだ。
彼の命もこれまでか。
皆が口々に叫んでいる。彼は舞台上の階段へと移動した。
 
沈んでいく様子を描いているのであろう、半透明の幕がだんだんと降り、
私と彼との距離は離れていく。
 
舞台の真ん中ではこの場面の終わりが告げられている。
 
幕が降りると彼は乗っていた階段を左の方へ押していく。
タイタニック号は沈んでいった。